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教えて!新監督の履歴書

サッカー部(女子) 監督 坂尾 美穂

良い〝習慣づけ〟が 飛躍につながっていく
サッカー部(女子) 監督 坂尾 美穂

小学校1年生のとき、兄とアニメ『キャプテン翼』の影響でサッカーをやりたくなった。兄が在籍するチームで一緒にプレーしたかったが、女子が入ることは認められなかった。
結局、新しく結成されたチームで小学校2年生の時プレーを始めることになったが、この4月から本学サッカー部(女子)の指揮をとる新監督は「指導者になろうと思った原点が、実はこのときの体験にあったんです」と振り返る。
「女子がサッカーをするためにはサッカーチームをもっと増やす必要があると、子ども心に考えました。もちろん、漠然とですが、いつか大人になったら自分が指導者になって女子サッカーに貢献したいと思うようになったんです」
そんな思いを胸の奥に秘めた少女は、「トップリーグでサッカーをしたい、最終的には日本代表でプレーしたい」という高い目標を掲げながらボールを追い続けた。 記憶に残る試合がある。女子サッカーが初めて採用された大阪国体で、東京選抜に大差で敗れた。
「実力の差を痛感させられました。しかしそれを絶望と捉えず、さらに上のレベルでプレーを続けるためには、何をすべきか考えるきっかけとなりました」
現状を打破するために考え抜き、努力し、更なる高みを目指した。その選手としての活動や考え方が大きく影響して、指導者への道を拓くことになる。
大学卒業後、母校で指導者としてのキャリアを歩み始めた。以来、福岡県のU︲15女子選抜チームの監督や、その後JFAナショナルトレセンでコーチを務めるなど、主に育成年代を対象に指導経験を重ねてきた。教え子のなかには、フランスで開催されたばかりの女子ワールドカップ2019のピッチに立った選手もいる。
「私がサッカーを始めたころと比べると、女子サッカーを取り巻く環境は大きく変わりました。競技レベルも格段にあがっています。でも、まだまだ競技を浸透させるために私たちがやるべきことはたくさんあります」
そのための新たな挑戦が、本学での指導である。選手たちと向き合った第一印象は「技術面はいいものを持っているし、攻撃のアイディアや判断力もいい。そんな選手が何人かいるし、2部にいなくてもいいチームなんじゃないかと思いました」。
もちろん、新たに取り組むべき課題も見つけ、指導に反映した。
「一言でいえば、いい習慣を作ること。休憩している時間を少なくし、体も頭も常にプレーすることを習慣にするように指導しました。その習慣を続けていくことで、ボールを失っても切り替えてボールを取り返しに行く習慣も身についていきますから」
春のリーグ戦が始まると、チームは快進撃を続けた。大阪国際大には敗れたが、6月の順位トーナメントで立命館大と関西大を連破し、見事2部リーグで優勝、1部リーグ復帰を決めた。
その要因を問うと「全員がやるべきことをやり切れたことだと思います。試合に出られない選手たちの練習へのモチベーションや、ベンチでの振る舞いも素晴らしかったし、試合に出ている選手たちも要求されていることを一生懸命やってくれていました」。
秋からは1部リーグで新たな挑戦が始まる。指導者としての葛藤は、学生たちの主体性とアドバイスのバランスだ。
「伝えすぎると選手のアイディアを奪い教えてもらうことを待つようになるし、逆に何も伝えなければ、より高い水準・基準での考え方、新しい判断やアイディアが生まれてこない。これは永遠のテーマですね」
そのバランスをうまくとれたとき、笑顔を絶やさない新指揮官は関西の女子サッカー界に新たな旋風を巻き起こすかもしれない。
最後にチームのキーマンを聞くと、「チームのメンバー全員です」という言葉が返ってきた。
(上田遼斗・3年次生)

ハンドボール部 監督 池本  聡

新たな旋風を巻き起こす
ハンドボール部 監督 池本 聡

この春就任した新監督のもと、本学のハンドボール部は今年の秋、初めてリーグ戦に参加する。数多くのチームで指導経験を重ね、ハンドボール界で名を知られるベテラン指導者は「我々のチームには、大学からハンドボールを始めた学生もいる。みんなで力をあわせ、努力すれば初心者でも結果を出せることを証明したいですね」と語る。
熊本県天草市出身。中学生になってバレーボール部に入ったが、入学して間もない頃、ブロックで跳んだときに左手の指を3本も骨折。2ヶ月間もギプスを外せない生活が続いたが、このアクシデントがハンドボールを始めるきっかけになった。
「バレー部の練習に参加できないまま夏休みを迎えたのですが、この間、教室の目の前にハンドボールコートがあったので彼らの練習をぼんやりと見つめていました。小学校時代の同級生がハンドボール部だったこともあって、少しずつ興味を持ち始めたんです」
2学期が始まると同時にハンドボール部に入部。「地肩の強さには自信があった」という4ヶ月遅れの新入部員は、ハンドの魅力にとりつかれていく。建築家になりたくて進学した工業高校でもハンドを続け、関東の強豪大学から勧誘の声がかかるほどの選手に成長した。卒業後は開学から8年目を迎えようとしていた地元の大阪体育大学へ。
目標だったインカレ制覇は果たせなかったが、4年次生のときに1年次生の教育係を務めたことが、指導者への道につながった。
「それまでは自分のことだけで精一杯だったのですが、この時初めて指導することの難しさと喜びを知りました」
卒業後、母校のコーチを10年ほど務め、8年目でインカレ初優勝を果たした。そして、大阪学院大学で監督を務めると、7部にいたチームを立て直していく。様々な壁にぶち当たったが、高校の強豪校を指導する先輩指導者たちのもとを訪ね、そのノウハウを貪欲に吸収した。彼らと共に100円玉や10円玉を選手にみたて、さまざまなプレーのシミュレーションを朝まで繰り返した思い出は、指導者としての原風景でもある。そうした努力を積み重ねた結果、2年半で1部入替戦まで行くチームに成長した。
「てっぺんに行かないと見えない景色があるんです。私の場合、やらなくてもいいことがあるのに気づきました。いろんなハンドボールがあるが、難しいことは伝わらない。シンプルなことを選手にわかりやすく伝えるようにしようと決めました」
実業団チームを率いるようになってからも、そんな指導法を貫いた。ジャスコを指導したときは、選手たちに2ヶ月間ボールをさわらせず、ランニングを中心に体力作りを徹底させたこともある。
「人間って体力が落ちると技術が落ちるんです。でも、一度習得した技術はなかなか落ちない。走ることは自分との競争で、誰かと競争するわけじゃないんです。自分の中で自分を超えられるかどうか。そこだけに重点をおいて2ヶ月やって、試合の1ヶ月前にボール持たせたら全然違うんですよ」
結果、それまで格下のチームにトリプルスコアで試合を落としたりしていたチームは立ち直り、加盟していた2部リーグで優勝を果たし1部復帰する。また、全日本実業団選手権大会に2部チームが優勝する快挙を成し遂げ、翌年も連覇することができた。
学生を指導するのは久しぶり。練習前は選手たちに気さくに声をかけるが、練習が始まると一変、鋭い眼差しで的確なアドバイスを投げかける。
「自立する学生が伸びる」
そう言い切るベテラン指導者は「学生の女子ハンドボール界は、大体大がここ何年も負け知らずなので、どこかが連勝を止めなければいけません。もちろん、我々が連勝記録を止めたいと思いますが、まずはそこに追いつけるレベルまで行きたいですね」と抱負を語ってくれた。
(吉岡詩織・3年次生)

男子バレーボール部 監督 竹川 智樹

自分たちで考えるバレーで、頂点を目指したい
男子バレーボール部 監督 竹川 智樹

「高さで負けてしまいました。速さだけでは厳しかったですね」―。
初めて1部リーグでプレーする選手たちを見守った新監督は、率直な感想をそう語った。男子バレーボール部は昨秋の2部リーグで指導者がいないなか、持ち前の速さとレシーブ力で初優勝を飾り、悲願の1部リーグ昇格を果たしたばかり。1部での戦いぶりが注目されたが、結果は11戦全敗で2部リーグ降格。U︲21の日本代表アシスタントコーチを務め、自身も大学ビーチバレー日本代表の経験を持つ指揮官にとってもほろ苦い1部リーグデビューとなった。
「自分達で弱点を見つけ、それを克服する練習法を続けてきた結果、技術力が強みになっている。ただ、もっと自由度の高い練習をしているのかと思っていたので、練習のレパートリーが少ないことが意外でした」
そんな印象も口にするが、チームを自らの色に染めようとはしない。「大学生だから、自分たちで考えて行動することが大切です。その結果、人間力が形成されて、ここ一番でのメンタルも強くなっていきますから」
3人兄弟の末っ子として福島県で生まれ父母からたくさんの愛情を注がれ育てられた。兄2人はサッカーをしていたが、末っ子は陸上競技や水泳など、いろんな競技に挑戦した。バレーは中学生から始め、3年生で県代表に。スポーツ推薦で進んだ日大東北高校でも、跳躍力を活かしたプレーで活躍した。
国士舘大学進学後はビーチバレーにも挑戦。「朝起きて一時間半かけて砂浜に行き、ビーチバレーの練習をした後、体育館でチーム練習をする日々」を積み重ねた結果、4年次生の時には全日本インカレで決勝まで進んだ。決勝の相手は、かつて指導したこともある他大学の後輩チームだった。
「中学生の頃からずっと夢に見ていた〝日本一〟の称号を手に入れられるチャンスだと思いました。負けるなんて、これっぽっちも想定していなかった」
だが、試合は序盤に0対9と大差をつけられる予想外の展開に。16対16のデュースにまで追い上げたが、最後に力尽き、頂上からの風景を目にすることはできなかった。
「この試合が一番印象に残っています。普段の練習からしっかりやっていれば、日本一になれたかもしれない……。そんな後悔を今も引きずっているからかもしれません」
その後、ビーチバレー日本代表として海外交流グアム大会に出場し、ベスト8まで勝ち進んだ。卒業後は国士舘大学大学院へ進学し、現国士舘大学男子バレーボール部監督の横沢民男氏のもとコーチを務めた。「いつかインカレで横沢監督率いる母校と戦うことになれば面白いですね」と笑みを浮かべるが、そのためには目の前にある壁を乗り越えなければいけないこともわかっている。
「1部でもサーブレシーブは上位に入っていましたから。小さいながらも工夫して技術をつけていったのだと思います。でも、これからはもっと工夫を重ねていく必要がある」
そう語ると、自らの存在がチームへ与える影響についても言及した。
「口には出さなくても、僕が来たことで不安を感じている学生もいると思います。彼らが僕の指導から何を感じて、何を実行していくのか。例えば、インドアバレーとは違うビーチバレーの技術を積極的に取り入れることや、琵琶湖岸の砂浜でトレーニングすることがさらなる強化につながるかもしれない。その一つ一つの挑戦が、必ず結果に繋がっていくはずです。神様はそうしたところをしっかりと見ていてくれますから」
4月から妻と3歳の次男と2歳になる三男を東京に残し、中学生の長男と2人で滋賀での暮らしを始めた。掃除や洗濯はもちろん、長男のために毎朝弁当を作り、その写真をスマホで撮影して妻に送る。この数ヶ月でずいぶん弁当作りの腕をあげたらしく、先日はオムライスの卵の上にケチャップで『NO Limit』というメッセージを添えた。
長男へのメッセージは、自らを奮い立たせる魔法の言葉でもある。新監督は「常にできないことはないと思っています」と言うと、本学でのビジョンをこう語ってくれた。
「5年で関西リーグ1部優勝、10年でインカレを制したい」
それはかつてあと一歩届かなかった、〝日本一〟への再挑戦でもある。
(田山和磨・3年次生)