『音のない世界』でつかみとった栄光
ブラジル南部カシアスドスルで5月に開催された第24回夏季デフリンピック競技大会の陸上男子400メートルで、本学陸上競技部の山本剛士選手(3年次生)が6位入賞を果たした。日本選手団のメンバーが新型コロナウイルスに感染、エントリーしていたリレー種目を出場辞退するアクシデントにも見舞われたが、補聴器をはずした『音のない世界』で海外の強豪選手たちと競った山本選手は「初めての海外、初めての国際大会で緊張しましたが、決勝で走れて良かった」と大河正明学長に帰国報告。「2025年のデフリンピックが日本で開催されれば、メダルを獲りたい」と、さらなる飛躍を誓った。
山本選手は、滋賀県彦根市出身。生まれつき耳に障がいがあったが、小学校から健常者の同級生とともに学び、サッカーと陸上に夢中になった。「記録という数字で自分の限界を超えていくことに魅力を感じた」というハンディキャップを背負った少年は、中学入学と同時に陸上の短距離種目に専念。走りを磨いてきた。
「健常者と同じ大会に出たときは、選手招集のアナウンスが聞こえなかったり、ピストルの音が聞こえなくてスタートが遅れたりすることがあった」という山本選手。本学入学後も自己記録を更新できずに苦しい時期が続いたが、石井田茂夫監督の熱心な指導でデフリンピック日本代表の座を手にいれた。
デフリンピックは、聴覚障害者による国際的なスポーツ大会。国際ろう者スポーツ委員会(ICSD)が主催し、オリンピックと同じように4年に1度、夏季大会と冬季大会が開かれている。今回のブラジル夏季大会は新型コロナウイルスの感染拡大で一年延期されたが、日本から11競技95人の選手たちが参加した。
山本選手は当初、リレーの選手として日本代表に選ばれていた。今年の2月に初めて代表合宿に召集されると、「全国から集まった代表メンバーたちとコミュニケーションをとる必要性を痛感した」と、それまで苦手だった手話も猛勉強した。そして一つひとつの課題をクリアしていった結果、大会直前の最終エントリーで、日本の協会推薦枠として個人種目の400㍍代表にも名を連ねることができた。
だが、初めて日の丸をつけて挑んだ舞台は、良いことだけではなかった。山本選手にとって、今回の大会が初めての海外、初めての国際大会である。ブラジル到着当初は食事が合わず、体重が2キロも落ちた。それだけではない。大会期間中に他競技の日本選手団に新型コロナウイルス感染者が出たため、リレー種目のスタートラインに立つことはなかった。とりわけ、4×100㍍リレーは前回大会で優勝していただけに、不本意な形で連覇の期待が消えた。山本選手は「リレーのことを考えると複雑な心境ですが、大会直前に個人種目にもエントリーしていただき、あの舞台で走ることができただけでも幸運でした」と振り返るが、地球の裏側でこれまで見たことのない景色を見ることができたのは、彼自身の力である。
「楽しめた」準決勝で自己記録を更新
なぜ、自己記録を更新できないのか―。本学に入学後、厳しいトレーニングで明らかに力はついているのに、思うようにタイムを更新できない時期が続いた。そんなとき、支えてくれたのも石井田監督である。「自分自身に力がついている実感はあるのにタイムが縮められない。そんなとき、アスリートはどうしても精神的なものに原因を求めがちなんです。でも、動作や食事、休息といったところに必ず原因があるんです。山本にもそのことを何度も伝え、体の動きの一つひとつを徹底的にチェックしました」 そうした積み重ねが、初めて体験する「音のない世界」で実を結んだ。
「とにかく、楽しんで走ろう」
そう自分に言い聞かせてスタートラインに向かった。
迎えた準決勝。男子400㍍にエントリーした各国の代表選手のうち、山本選手の記録は14番目だった。持ちタイムだけを見れば、決勝に進出できる8人に残るのは難しいと思われていたが、山本選手は「とにかく、楽しんで走ろう」そう自分に言い聞かせてスタートラインに向かった。
デフリンピックには、競技中は補聴器をはずす規則がある。「音のない世界」で走るのは、初めての体験だった。
スターティングブロックに足を置いてスタートの体勢に入ると、ブロックに設置されたスタートランプが目に飛び込んでくる。「位置について」は赤、「よーい」は黄色のランプが点灯していく。そして「どん(スタート)」の合図である白いランプが点灯すると同時にトラックを駆けた。「人工内耳(補聴器)をつけていると、足音や鳥の鳴き声とか、いろんな情報が音として入ってきて集中できないこともありました。でも、初めて体験する『音のない世界』は、レースのことだけに集中できました」
記録は高校3年生のときに記録した自己ベストを0.8秒更新する48秒81。見事に2着通過で決勝進出を決めた。
決勝では「色々な事を意識してしまった」と悔やんだが、それでも6位入賞と、初めてのデフリンピックで確かな足跡を刻んだ。
2025年に向けた2つの夢
帰国後、学長室を訪れた山本選手は「決勝に進出できたこともうれしかったのですが、それと同じくらい、こんな大きな大会で自己ベストで走れたことがうれしい」と、自らが陸上にのめりこんだモチベーションと重ねて喜びを報告。大河学長は、「国際大会での活躍おめでとうございます。これから年齢を重ねたとしても、今後の人生の支えになる大会になると思います。これからは注目される立場になるかもしれませんが、人は注目されることで成長できる。自信を持ってチャレンジしてほしい」と、そのがんばりを讃えた。
2025年デフリンピック大会が日本で開催されればメダルを獲りたい
大河学長が今後の目標を聞くと、山本選手の口から「2025年」という年次が明らかにされた。「この年には滋賀国体が開かれるので、その舞台で活躍したい」と言及したあと、山本選手は次のデフリンピックへの思いを語った。「これまで日本ではまだデフリンピックは開かれていませんが、全日本ろうあ連盟が2025年デフリンピックの日本招致に向けた招致活動に取り組んでいます。もし、2025年にデフリンピックが日本で開催されれば、メダルを獲りたい」
学長を訪問する直前、デフリンピックの代表選手として仲間と手を合わせ、第106回日本陸上競技選手権大会でリレーを披露した。山本選手の挑戦はこれからも続いていく。
(文責・小林大和)
-
特色あるびわこ成蹊スポーツ大学の教育
研究活動について
教育・研究を支える機関